確率

 雨が続いている。それも、日本全土で。しかも、一ヶ月も。
 異常気象――まさに、そう言わざるを得ないだろう。俺には大学に入れるだけの頭もないし、霊能力だとかそんなめでたい特殊能力も持ち合わせちゃいないが、それでもいまのこの状況が「異常」だってことくらいはわかる。開きっぱなしの蛇口から流れ出す水のように、一秒たりとも止むことなく、また弱まることもない雨。いったいどういう理屈でそうなっているのか、雲の形を見せてもらったってわかりっこないけど、ニュースキャスターがぎゃあぎゃあ言ってることの内容くらいは理解できるから。
 いわく、「この一ヶ月で日本の年間降水量を軽く超え」。
 いわく、「床上浸水の被害戸数が過去最高となり」。
 いわく、「この長雨による死傷者の数は戦後例をみないほど」。
 どれもこれも新記録樹立だ。それも最悪の。喜ばしい記録なんて天気予報の連続的中記録くらいに違いない。毎日飽きもせずに傘マーク付けてればいいんだから、ありがたみも何もないけれど。
 とにかく。あまり悠長なことは言っていられなくなった。何といっても異常も異常、例のない非常事態だ。
 交通機関、もちろん麻痺。
 自転車もバイクも車も電車も動かない。飛行機や船だって動けないし、徒歩なんてのは論外だ。
 救援活動、もちろん無理。
 そもそも日本全部が被害に遭ってるわけだし、海外からの支援も海の港も空の港も使えないいまとなっては望めない。なんせ日本は海に囲まれてしまっているんだから。
 日常生活、もちろん破綻。
 最初の一週間こそ滞りなく営まれていた普通の毎日ってやつも、食糧調達が難しくなってくるに従って崩れていった。トラックが走れなきゃ店に商品は並ばないし、農作物はほぼ壊滅したし、漁にだって出れやしない。食べるものがある倉庫や工場などのストックから自力でなんとかするしか食いつなぐ方法はなくなってたんだ。
 そして在庫がなくなればオシマイって事実は、雨が一週間から二週間、二週間から三週間と続くうちに、静かな恐怖となって浸透していった。
「明日には晴れるだろう」なんて思っていた俺も、いつか「もうこの雨は止まないんじゃないか」という考えがちらついて仕方なくなった。
 最初は。市街地が水に侵されていっても、高台に避難してれば何とかなるだろうとたかをくくってた。でもいまは逃げるだけではだめだと思う。行動を起こさないと飢えて死ぬから、危機感が俺を駆り立てる。
 こんなこと考えていたのはもちろん俺だけじゃない。だからもう、日本は無法地帯だ。盗みも暴力も、生きていくためという大義名分のためならまかり通る。それはただの建前かもしれないけど、でも咎める人だってもういない。
 ぷかぷかとゴムボートを元道路だった水路に浮かべて、俺は食糧を調達する。最近は菓子工場の原料倉庫――もうほとんど水の下だ――が俺の縄張りだ。濁った水の中を手探りで進んで目的のものを手に入れるのは苦労がいるが、そうやって取ってきたブツを狙う輩も当然いる。そう、本当に日本は無法地帯になってしまった。
 そんなことを思いながらぷはっと水面に顔を出す。
 突然、視界に人間の頭が割り込んできて、俺は盗ってきた砂糖の袋を左手に、ポケットに忍ばせていたナイフを右手に、そっと握りしめた。
 相手の顔は長い髪に隠されてまるきり表情が見えない。だが、俺を狙うつもりなら容赦などするものかと思った。
  幸い俺は独り身だ。だから助け合いも譲り合いもいらない。他人なんか信用しない。自分のことだけを考えて――生き抜くためなら何だってしてやる。
 ……と。俺はそいつが漂うように浮いていることに気づいた。同時に、そいつはもう動けないのだ、と悟る。俺に確実に勝てる最大のチャンス――浮かんでくるところへの不意打ち――を逃したヤツは、浮いていることしかできない存在にもうなってしまっているのだ。
 ふと見ると、水の流れが少しだけ変わっていた。モーターボートか何かが近くを通ったのだろうか。少し波立った水面に揺られながら、木片やゴミや大きなものや小さなものや、とにかくいろんなものが、自分の方へと運ばれてくる。
 その流れに乗ってひときわ大きな、かつて人間だったものが自分の方へと……

 
『 
 どう計算したって、この確率はおかしいと思うの。
 確率計算の公式なんて正直記憶の彼方だけど、でもね、絶対絶対おかしいと思うの。
 あたし、今日も見た。道ばたでごろんと横になってるおじさん。
 でもね、寝てるんじゃないの。
 だって息してなかった。俯せになって上になってる後頭部のとこ、そこが見事に陥没しちゃってて。
 無理……よね? こんなに血が流れてたら、白目むいてたら、生きてなんていないわよね?
 あたし、おじさんをまじまじと。死んじゃった人をじっくり見るのなんてホントは嫌だけど、「おじさんがその確率を構成する要素かどうか」ってことは、あたしにとってとっても大切なことだったから。
 だから、恐る恐る、一歩ずつ近づいて。
 そして、しゃがんで、みる。
 血、固まってた。もしかしてと思ったけど、やっぱりおじさんは生きていなくて。あたし、まぶたを閉じてあげようとしたけど、それもだめだった。
 おじさん、いつからここに倒れていたんだろう? 
 空は黒色を取り込みはじめて、だけどまだ宵の口。誰にも見つけてもらえなかったのはきっと運が悪かったのね。昼間の大通りなら、何人かは人が通ったでしょうに。大通りはずっとずっと向こうだもの。
 ごめんなさいね。声に出しておじさんに謝った。
 それは、もっと早くに見つけてあげられなかったこともだし、見つけたのがあたしだったってこともだし――だってあたしじゃおじさんを運んであげられない。あんまり体格が違いすぎるんだもの――、あたしの頭のなかはもう別のことでいっぱいっていうことも、ある。
 だって、「やっぱり」あったの。
 おじさんの頭の横に、拳くらいの大きな岩石。
 隕石。
 そう、あたしはまた、隕石に「運悪く」当たって死んでしまった人を見つけたのだ。
 十日前にはじめて見て、一週間前にまた一人、四日前には同じ日のうちに二人。一日空けてそれからは毎日よ。今日なんて朝からもう、おじさんで六人目。
 たまたまあたしが「偶然」にも、隕石に当たる人を見てしまいやすい体質なんだろうか? でも。隕石ってそんなに良く降ってくるもの? それに降ってきたとしても、そんなに良く人に当たっちゃうもの? こんなことが起こり始めたのがここ最近っていうのもたまたま?
 ぐるぐるぐる。そんなことで頭がいっぱい。
 それにしたって、ね。
 どう考えたって、ね。
 この確率はおかしい。絶対絶対おかしい。
 ついさっきは、あたしの体質がなんて言ったけど、ホントは違うってわかってる。だってみんな見てるし、みんな知ってるもの。ここ最近、やたらと隕石が降るってこと。あたし以外に人の姿が見えないのだって、みんなできるだけ家から出ないようにしているからだわ。
 他の国では何ともないんだって、先生が言ってた。友達は家族で避難するって学校に来なくなっちゃったけど、あたしは授業がつぶれてしまっても毎日、律儀に通ってる。ママがね、うるさいんだもの。でもおかげで先生に会えるからいいけど。
 リュックを背負い直して、あたしは家路につく。
 車がやっと通れる細い道。丘の上まで、少し息を切らして。
 そして角にさしかかったとき、
 ぎゃん
 斜め後ろ、短い悲鳴が聞こえた。
 反射的に振り返ると、横倒しになった犬の姿が飛び込んでくる。口から真っ赤な泡をふいて、痙攣する手足。
 ああ、神様――
 これで今日は、六人と一匹……

 
『 
 私は地震が嫌いでした。生まれ故郷を捨てるほどに、私は地震というものが大嫌いでした。
 人は地に足をつけて生きる生き物です。その基盤となる地面が動くだなんて、どうして我慢ができるでしょう。ましてあればかりは備えようがありません。あるとき突然やってきて、ひとときのうちにあまりに多くのものを奪ってゆきます。私の両親も友人も、その犠牲となりました。
 ですから。南アフリカに移住してからの地震に怯えずに済む暮らしは、本当に本当に幸せなものでした。本当に本当に幸せだったのです。つい、三日前までは。
 ――あなた……っ!
 それは夕食時でした。妻の悲鳴が聞こえたそのときには、私の体はもうカタカタと震えだしていました。骨がきしむような怖ろしさ。それは子供のころの記憶と重なる、わずかばかり懐かしい、けれど思い出したくもない恐怖でした。
 南アフリカにも小さな地震はあります。けれどそれは、プレートがずれることによるものではなく、深く掘り進められた鉱山が崩落したときに起こる余波のようなもので、そうそうあるものではありません。移住してもう八年、私は微震を感じることもなく暮らしていたのです。
 ――おいで。
 結婚したばかりの妻を近くへと引き寄せると、彼女は潤んだ瞳で私を見上げました。(守るべきものがある)そう思うと、震えてばかりもいられないと、自分がしっかりしなければと、決意の気持ちは大きくなります。
 地震が収まるまでしっかりと妻を抱きとめていた私は、またこれでひとつ自分が大きくなったような気さえしていました。いつかまた地震が起こったとき、そこには子供もいるでしょう。二人、いや三人いるかもしれません。思いを馳せた未来の、力強く家族を守っている自分……その姿に密かに興奮してもいました。まもなくその青写真が、見る影もなく崩れてゆくことも知らずに。
「あなた、また……」
 わずかばかり蒼ざめた顔で彼女が呟きました。
 三日前のあの地震以来、もう数え切れないほどの地震が我が家を襲っています。その間隔は少しずつ短くなり、揺れは少しずつ大きくなり、連れて被害は少しずつ広がって。昨日はとうとう死者が出たのです。
 いまの私はおそらく、彼女よりも蒼ざめた顔をしていることでしょう。眠ることもできず、ただ部屋の壁をじっと眺めて次の地震に怯えて過ごすのみの私は、もう彼女の手をとってやることも、大丈夫だよと微笑んでやることもできずにいました。
「今度のは長いわね」
 窓の外をつと眺めて再び呟く彼女に、頷き返すこともできず。
 いつもやさしい眼差しを向けてくれた妻の顔にはもう、私に対するどんな感情も浮かんでいません。独り言を言い続けるだけになってしまった虚しさからでしょうか、諦めや軽蔑やそんな表情さえなくなっていました。
 本当に長い地震です。
 縦揺れ。
 横揺れ。
 縦揺れ。
 横揺れ。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し……
 揺れはいつまでも止まりません。
 コップが割れました。
 本が落ちました。
 悲鳴が聞こえ。
 怒号が交錯し。
 家が崩れ、
 大地が割れ、
 妻は、
 私は、、、
 …………、
 ……………………



 廊下は硬質な音を響かせていた。堅牢な造りの石壁と高い天井に挟まれているせいで、音は吸収されることなくそのまま反響するのだ。
 音の主はシルバーブロンドの髪をなびかせる長身の男だった。色素の薄い肌の上で色好い唇をきゅっとつぐんで、ただでさえ怒っているように見える顔をさらにしかめている。床につくほど丈の長いローブがさらりと揺れる姿は優雅であるのに、乱暴な足運びのせいでとても高い地位を持つ者のようには見えなかった。彼は世界を統べる大神の次に権力を持つ天上人であるというのに、だ。
 分厚い紙の束を握りしめる手に力を込め背丈の倍ほどもある巨大な扉の前に立ち止ると、男は重そうに背にぶら下がる翼を一度ばさりと広げる。それはため息をつく姿にも似ていた。
「失礼します」
 声をかけるとひとりでに開く扉。
 男はそのまま部屋のなかへと足を踏み入れると、巨大なパネルに向かい座している、金のオーラをまとう人物に呼びかける。
「大神様」
 どこか楽しそうな背中。その後ろ姿にそっと眉をひそめたまま返事を待つが、金のオーラの人物は黙したままである。
 緑のボタン。黄のボタン。青のボタン。せわしなく動く両手。
「大神様……!」
 声に深い怒りを滲ませて男がもう一度呼びかけると、ようやく大神が振り返った。
「なんだ、いたのか」
 男は本気で卒倒しそうになった。
「なんだではありませんっ。お呼びになりましたのはあなたでしょうに」
 その言葉に(そうだったかな)という表情が浮かぶのが憎らしい。
「ふむ、で、ディシーム? 何だったかな、用事は」
「急げと言っておきながらそのような……」
 ディシームと呼ばれた男は、大神を睨みつけながら言葉をついだ。
「こちらです! かの世界がどのようになっているのか、レポートを提出せよとおっしゃったではありませんか!」
 相手の顔にはまたしても(ああ、そうだったかもな)という表情が浮かぶ。何とも心の内を読みやすい人物だ。
 ふむ、と大神は頷いて、ディシームの持っていた紙の束を取り上げた。そして無造作にボタンの並ぶパネルに放り投げる。内容に興味を持っていないことは明らかで、ディシームは意思の力に反して吊り上がる目尻を抑えるのに必死になった。
「きちんと、目を通してくださいッ! あなたというお人は、ご自身のお立場をいったいどのように考えておられるのか。世界は玩具ではありません」
「わかっておるわ、そのようなこと」
「では、なぜ雨は止まぬのです? なぜそんなにも隕石は落ちるのです? なぜ――」
「おまえが言ったではないか」
「……は?」
「おまえが、言ったのだと言っている」
 しれっと答える大神は、なぜディシームがそう言うのかが本当にわからないという顔をしていた。ディシームはディシームで、大神の言う意味がわからない。
「このままでは世界は滅びると、おまえは言ったであろう?」
「ええ」
「人間が増えすぎては困るから、天災を増やすべきであると」
「ええ」
 ディシームは首肯する。たしかにそう忠言したことはあった。
 しかし。
「それが何か……いえ、あの、『それ』が? 大神様、それが理由、なのですかッ!?」
 まさかと思いながらも、背中をすべり落ちる汗はどこまでも冷たい。
 そして大神は頷いたのだ。迷うことなく。
 とうとうディシームの理性が弾け飛んだ。
「物事には限度というものがあります!」 
 目を見開き、主へと言い募る。
「いったい誰があんなバランスを欠いた処置を執れなどと言いますか! 少しは頭を使ってくださいっ」
「……面倒ではないか……」
 唇を突きだして小声で反論する大神。その目の前のパネルに勢い良く左手をついて、ディシームは吠えるように叫ぶ。
「とにかく! すぐに日本の雨を止めてください。それから一日おきに中国を襲っている台風、オーストラリアの3メートルを超す津波も! ロンドンの雷も、フィンランドの氷点下80度もやりすぎです。いいですか、大神様!? 異常気象はたまに起こるから『異常』なんです。天災は事故よりも確率が低いからこそ効果があるんです。これ以上人間を環境に順応させないでくださいっ」
「…………」
「あああ、新しくプレートをつくってしまったのですか? う、わ、宇宙にまで干渉して……あの隕石は何光年先から持ってきたんです? 新種のウイルスも、一度にそんなに流行らせては――」
「…………」
 見れば、どの動作ボタンも規定の何十倍も酷使され、アラートランプが点滅していた。それは世界にかなり無理な力がかけられていたことを示している。
 ディシームはすっかり興奮していた。パネルとモニタに交互に視線を走らせるその目にはもう大神の姿は映っておらず、声が満足に届くこともない。
 だから、
「これにて継承の儀とする」
 それが耳に引っかかり顔を上げたとき。
 ディシームは、大神がその顔に張り付けていた満面の笑みに、心の底から恐怖した。
「大神、様……?」
 呼びかけた人物は、ゆっくりと首を振る。
「もう私はそのような名前ではないよ、ディシーム」
 深くなる口元の皺。数刻前まで大神と呼ばれていた男はすでに神の証を捨てていた。まばゆく輝く宝玉は、少しずつ新しい宿主の身体を金に光らせ始めている。
「なぜ、このような……」
「なぜと。問うのか、おまえが。私よりも世界の理に詳しいのであろう? ならば大神という存在がその所有物に対して絶対かつ万能であることがわからぬわけではあるまいな」
 無論、わからぬわけはない。自分が世界を統べる大神の所有物に過ぎないことも知っている。何でもできる、何でもさせられる、あがらうことなど許しやしない――
 言葉を失ったディシームに、いや新しい大神に、かつてすべてを手にしていた男は背を向けた。そして、
「おまえの望むように世界を導けば良い」
 言い残し扉を閉めるまで、一度たりとも振り返らなかった。
 


3月14日 最近すごーく運がいい。今日なんて相合い傘だよ、先輩と! 
     えへへ、傘持ってて良かった。
3月17日 今日も雨。天気予報は最近よく当たる。
     占いも当たるといいな。明日、ラブ運が最高なんだって。
3月18日 占い最ッ高! なんと先輩からデートのお誘い。日曜晴れたら
     海に行こうって!!! てるてるぼーずつくっちゃおっかな。
3月22日 ……神様のいじわる。なにも今日降らすことないじゃん!
3月25日 よく考えたら、ここんとこずっと雨。ついてない。
3月26日 今日も雨。
3月29日 雨やまない。
3月30日 昨日と同じ。
3月31日 昨日と同じ。
……



 ディシームと呼ばれていた男が大神の任について数十年。
 一度はゆるやかに減り始めた地球の人口が再び増え始めていた。
 世界中の天気予報は毎日、「降水確率100%」を告げている……


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