影灯籠

 白いレースのカーテンと、そこから透ける光。
 通い慣れたその部屋も、隣に当たり前のように彼女がいる居心地のよい空気も何一つ変わらないのに、いつもより少しだけ熱を持っているように感じられたやわらかな肌が自分に魔法をかけたみたいだと和彦は思った。
 さくら。
 愛しい人の名を心のなかでそっと紡ぐとき、どうしてこんなにも満たされるのだろう。
 彼女の表情がほんの少し変化するだけで、どうしてこんなにも幸福な気分になれたりするのだろう。
 やさしい微笑み。
 楽しそうに話す身振り。
 少しだけ照れくさそうに伸ばされる右の手。
 脳裏をよぎるだけで、胸の奥の方が苦しくなるような喜びがあふれてくる。
 毎日、そんなに変わったことがあるわけではなかった。和彦もさくらも普通に学校へ行き、普通に友達と会話をし、普通に恋人らしく一緒に下校したりして、家へ帰ればそれぞれテレビを見たり本を読んだり宿題をしたりして、そうやって毎日を積み重ねている。
 けれど。和彦にとってはその積み重ねこそがさくらへの想いを折り重ねていく作業そのもので、決して飽きたり慣れたりするものではなかった。さくらと付き合い始めてもう二年が過ぎるけれども、一緒にいられる時間は付き合い始めたころと変わらず楽しく大切なものだったし、失いたくないという想いは日増しに大きくなっていくような気さえする。
 さくらもきっと同じ気持ちでいてくれる。和彦はそう思っていたし、事実、二人の望むものは驚くほどにそっくりだったに違いない。だからこそ二人はこれからもずっと、クラスの誰が見てもお似合いだというカップルでいられるに違いなかった。繰り返されるおだやかな日々の海に時折おこる小さな波も、思い出となって静かに二人の隙間を埋め続けてゆくのだろう。

 ……さくら。
 自然に手が持ち上がる。
 女の子にしては短すぎるほどの髪にていねいに手櫛を通すようにして、和彦はゆっくりとまばたきをした。
『どんなときも一緒だ』
 ふいに蘇るドラマのワンシーン。
 誰の台詞だったかも、どんな場面だったかも、すっかり忘れてしまっていたけれど、それが再放送だったことだけは覚えている。
『君が行くところどこにでも僕は行く』
『君を一人にしない、君に寂しい思いなどさせない』
『忘れないで。僕はいつでも君の側にいる』
 そう、さくらと一緒に見たのだ。そこだけ彼女はなぜか目を閉じてドラマを聞いていて、その姿がすっかり脳裏に焼きついてしまった。
(俺の言葉を望んでいるんじゃないのは知ってるよ)
 あのときのさくらの横顔を思い返すたび、和彦は呟いてしまう。
(でも)
(伝えたいとは思うんだよ)
 何度も口にしようとして、そのたびに失敗している言葉ならいくつもある。たとえば、そう、
(ずっと一緒にいよう、って)
 そんなふうに、想いを素直に告げることができたならどれだけ良いだろう?
 けれど。
 和彦の指先がさくらの前髪をつとすくい上げた。
 和彦は口べたな自分を良く知っていたし、さくらもまたそんな彼を良くわかってくれていた。言葉よりずっと、手と手を繋いだときに感じるものを信じてくれていたのだ。

「和くん」
 指先が額に触れでもしたのか、ぽつりと言ってさくらがうっすら目を開く。まぶたの下の瞳はかすかに潤んでいて、まどろみのなかにいるかのようだった。
「なに?」
 心持ち顔を近づけて和彦は先を促し、そして凍りついた。
「絶対に、私より長生きしてね。一秒でもいいから、長く生きてね」
「…………」
「私、あなたが死ぬところを見たくない」
 さくらが目に涙を溜める。
 怖ろしい夢でも見ていたのだろうか。まず浮かんだその考えを、和彦はすぐに打ち消した。熱を分け合う感覚はまだ鮮明に残っている。自分が落ち着けずにいるように、彼女も決して眠ってはいなかったはずだから。
「ひどいな。俺はまだ死なないよ」
 どう答えていいかわからなくて、和彦はそんなふうに言った。
 見返すさくらは「わかってる、でもね」と続けそうな雰囲気で、だから和彦は慌てて言葉を継いだ。
「それに普通は女の人の方が長生きするものだよ」
 どうしてこんなことしか言えないのか。
 言った側からまた和彦は後悔したけれど、さくらは静かに微笑んで。
「うん、だからね。私は普通の女の人くらい長生きするけど、和くんには普通の男の人よりもっともっと長生きしてほしいの」
 そして、大好きよ、と言った。

 
 泣き顔も、怒った顔も、好きだった。
 でも笑った顔が一番好きだった。
 小川さくらという女の子が、
 言葉ではとうてい表せないくらい、
 めちゃくちゃ、好きだった。

 
 和彦は小さく笑んだ。
 幸せだと心から思った。
 そこはもう、やわらかな光りに溢れた部屋の中などではなく、夜の暗幕に包まれた島だったけれど。
 冷たい潮風が喉の奥を刺す感覚も、身体を包んでいるはずの気持ちの悪い浮遊感もどこかへいってしまい、いつかのあの日のさくらが繰り返し現れては消えてゆくなかで、
(人並みにも、人並み以上にも、俺たちは生きられなかったけど)
 ――さくら
(いつまでも、一緒だよ) 
 ひとつだけ確かな左手のぬくもりを、和彦はぎゅっと握りしめた。
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