大晦日と新年の挾間に
2000年12月31日23時55分。
 徳部剛志はリビングのソファに深く腰掛け、優雅にウィスキーのグラスを傾けていた。湯上がりに着た白いガウンはでっぷり横に広がった体にぴったりの特注品で、剛毛だらけの肌もさらりとなめらかに包んでくれている。バックに聞こえるか聞こえないかほどに低く流れるのはショパン。テーブルの上には有名なパティシエにこしらえさせた小さなケーキ。特番の組まれているテレビをつけてもいなければ、除夜の鐘が聞こえることもない。およそ日本の伝統的な年越しには相応しくない情景ではあったが、剛志にとってはもう恒例になりつつある大晦日の風景だった。
(――たったの、一秒だ)
 ある年と年とを分けるには、秒針がほんのわずか動くだけの時間しかない。それなのに何故こうも毎年さみしさを感じるのだろうかと、剛志はこのくらいの時間になるといつも思う。とりわけ今年はその気持ちが強かった。
 1月1日が誕生日の剛志は、今年ちょうど60歳になる。会社の規約に従えば定年だった。婿養子として徳部家に入り、わがままな妻――いまだって友達のところへ行っているはずだ――に毎月きちんと給料を入れるだけの30余年を思い返すと、せめて「ごくろうさま」のひとことくらいあってもいいと思うのだが、それは無理な相談というものだろう。だがそんな気持ちがあるというのが、よりさみしさがこみ上げてくる理由かもしれなかった。
 逆玉に乗ったわけでもなく、惚れ抜いて結婚したわけでもなく、普通に見合で知り合った相手。自分が三男で、相手が一人娘で、それだけの理由で婿入りした相手。そんな妻でも、一緒にいてほしいと願う……男として仕事を失うというのはそれほどにつらいものなのだと、ひとり叫びをあげたい気分にもなって、剛志は代わりに氷を鳴らす。
 23時59分。時計を見ると「今年」ももう残り僅かだった。ケーキに細身のろうそくを一本だけ立て、火をつける。ウィスキーをつぎ足す。年に一度しか出さないガウンの襟元を正してみたりする。……精一杯贅沢を気取る、一人きりの誕生祝いだ。
 そのとき、音漏れのする集合住宅のどこかで歓声があがった。
 拍手、そして「おめでとう」の声。
 新しい一年が幕を開けたのだ。
 剛志は口元に小さな苦笑いを浮かべると、ろうそくの炎を吹き消した。

「おめでとう」

 間近で声がしてふと見ると、剛志の妻が入口に立っていた。これまで彼には見せたことのないような艶っぽい笑顔を見せて、音のしない小さな拍手を送っている。
「60歳、おめでとう」
 彼女はもう一度言った。
「ああ……」
 剛志の答えはぶっきらぼうだったが、そこに驚きや戸惑い以外の、もっとやさしい感情が含まれているのはあきらかである。急に目の前が明るくなったような気さえしていた。これが第二の人生というもので、これこそが新しい門出なのだろうか。

 一秒で、日が変わった。
 一秒で、月が変わった。
 一秒で、年が変わった。
 一秒で、世紀が変わった。
 一秒で、年齢が変わった。
 一秒で、世代が変わった。
 一秒で、役職がなくなり、
 一秒で、第一の人生が終わり、
 一秒で、夫婦の関係が、変わった?

「貴子……」
 剛志は腹をでぷんと揺らして立ち上がった。
「いままでお勤めご苦労さま」
 彼女は笑顔を崩さない。いままでなら「気持ち悪い」とでも言いたげに眉を寄せたろうに、剛志が近寄っても嫌がる素振りもない。そればかりか、すっと手を差し伸べてもきた。
 もうそれだけで、剛志は結婚以来の不満などどこかへ行ってしまっていたのだけれど、ふと、彼女の手の先に握られているものが気になり首を傾げた。
 白い長封筒。
 受け取って、中を開く。
 ぴらぴらに薄っぺらい、紙。通称、離婚届。
「貴、子?」
「お勤め、ほんとうにご苦労さま」
 やっぱり笑顔を浮かべて、妻は「流行ってるのよ、定年離婚」と言う。
 用紙にはすでに判が押されていた。

 

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